2021年6月8日火曜日

醤油ラーメンと半チャーハン / らーめん こうへい (喜多方市)

らーめん こうへい

私は独創的で個性的なメニューで名をあげる今どきのラーメン屋よりも、昔ながらのスタイルを通している方が好みである。
お年寄りが作るラーメンには、まるで人間の体組成と成分がほぼ同じで自然と無理なく身体にラーメンが浸透してくるような、そんな感覚を覚える。
古くは喜多方北町郵便局の近くに在った「秀月」や、喜多方プラザ文化センター近くに在った「きぬた」のラーメンがそれであった。
“らーめん こうへい”のご主人夫婦はまだお若いのに、それらお年寄りが作る物に似たしみじみと美味いラーメンを作る。
背脂や黒醤油を使い新分野の喜多方ラーメンを開拓するも、その味わいは結局しみじみ美味い昔からのラーメンになる所が“こうへい”の面白い所でもあり、何度も足を運びたくなる理由なのだろう。

店内に入ってすぐの所にテーブル席が2つ。座敷に4人用座卓が6つ。
狭い店が多い喜多方では広い部類ではないだろうか。

醤油ラーメンと半チャーハン

“こうへい”と言えば麺もチャーシューも黒く染まってしまう真っ黒なスープの「漆黒ラーメン」ばかりが取り沙汰されるが、普通の正油ラーメンもかなり美味い。
この丼風景を見ていると“小山ゆうえんち”や“としまえん”などの老舗の遊園地を連想してしまう。
派手な演出や馬鹿騒ぎは無いが、押さえるべき所はシッカリ押さえている安心感のような物を感じる。


スープは漆黒ラーメンには及ばないものの結構黒く、味が濃い。麺はやや細めの縮れ麺。
具は固茹で玉子が1/4個、メンマ、刻みネギ、チャーシュー。
トロットロの半熟味玉が主流のラーメン界で、昔風の固茹で玉子ってのがイイね。しかも1/4個ってのがとてもイイ。普段どうって事もなく思っている茹で玉子が急に貴重な食べ物に思えてしまう。
こうへいもチャーシューが美味い店の一つで、噛めばホロリと崩れて脂身から旨味が溢れ出る。
半チャーハンもラーメン同様に濃い目に味付けされていて、香りはとても芳ばしい。


らーめん こうへい

住所 : 福島県喜多方市沼田6981
電話 : 0241-22-4328
定休日 : 木曜日
営業時間 : 11:00〜18:00(スープなくなり次第終了)
駐車場 : なし

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2021年6月6日日曜日

つげ義春と塔のへつり / 南会津郡下郷町 (2021)

塔のへつり【とうのへつり】

侵食と風化による造形

世の中の奇岩や珍妙な地形はほとんどが堆積と隆起と侵食と風化の賜物である。
“塔のへつり”は河食地形の好例として、国の天然記念物に指定されている。
ところで“塔のへつり”とはどう言う意味か。
調べてみると『へつりとは川に迫った険しい断崖のことで、塔の形をした断崖の意味』とある。また『へつりとは水際の岩場を横へ横へと移動すること』の意味も有るらしい。後者の方が塔のへつりに合っている。
どちらにしても、へつりという言葉は“塔のへつり”以外に使っているのを見た事も聞いた事も無い。

つげ義春の作品『もっきり屋の少女』

“もっきり屋の少女”は1968年8月に、漫画雑誌『ガロ』に発表されたつげ義春による短編漫画作品である。
つげ義春が塔のへつりの土産物屋で買った会津地方の方言を書いた手ぬぐいが切っ掛けとなり生まれた短編作品だが、作品中にはその舞台を塔のへつり付近とも会津地方とも特定できる要素はチヨジの言葉以外には皆無である。
コバヤシチヨジの言葉には会津方言を用いてはいるが、二人の常連客との会話全体を通してみると会津地方が舞台とは断言できない作品である。
作品中の居酒屋で働く少女コバヤシチヨジは一銭五厘で買われて来た身の上を「みじめです」と語る。
二人組の客を相手に乳首を触らせ、その快感に5分間耐えられたら赤い靴を買ってもらえる賭けをするチヨジ以外に居酒屋の主人などは登場しない。チヨジが一人で切り盛りしている居酒屋らしい。
チヨジが働く居酒屋で是非とも一杯やってみたい。
つげ義春が作品を描く切っ掛けとなった手ぬぐいを買った店は何処なのかとそれぞれの土産店を覗いてみたが、どこにも方言を書いた手ぬぐいは売ってはおらず、また、つげ義春との関係を示す物も無かった。

塔のへつり駐車場問題

会津鉄道会津線の踏切を過ぎた辺りから両側に有料駐車場が目立ち始める。
こんな所に駐車場すれば400メートルほど歩く羽目になる。
塔のへつりのすぐ近くには無料の駐車場が有るには有るが、これは土産物店の駐車場になっていて何かしらの商品を買う事を条件に無料で駐車できる所謂“飯盛山方式”なのだ。
無料駐車場の文字に騙されて車を停めると土産物店の店員が来て何か買えと言う。
購買意欲をそそる商品が有ればもちろん買わせて頂くが、どこの観光地でも売っている合成保存料タップリの菓子やキノコの水煮などが思わず「高っけーっ!」と声に出しそうな値段で売られている。
このような商売をしているといずれ飯盛山のような運命を辿る事になる。
キャッチセールス紛いの商売に見切りを付けて、つげ義春氏の協力を仰いでオリジナルのコバヤシチヨジ手ぬぐいの製作販売をする位の土産物店としての矜持を見せて欲しいものだ。



塔のへつり(塔の岪)

住所 : 福島県南会津郡下郷町弥五島下タ林
見学 : 無料
駐車場 : 有料もしくは土産物を買わされる

2021年6月1日火曜日

三本住庵の墓 / 阿弥陀寺 (喜多方市塩川町)

飯沼貞吉を救った三本住庵の墓がある喜多方市塩川町の阿弥陀寺


喜多方市塩川町

今でこそ塩川町は喜多方市に併合されてしまったが、戊辰戦争当時の塩川町は米沢街道の宿場町として栄えていたようだ。
当時は新潟から阿賀川を通って米や塩などを積んだ船が盛んに行き来していたと言う。
現在でも当時の名残りが有るせいか、塩川町は小さいながら会津若松市などよりもずっと趣きがある町並みで、歩いてみると面白い。
会津新選組陣所が有って斎藤一も長逗留したと言うが、現在はそれを示す標示も無い。とても勿体ない話である。

三本住庵【みつもとじゅあん】

現在の東邦銀行塩川支店は会津藩塩川本陣が置かれた場所で、自害を試みたが運良く蘇生した白虎隊士 飯沼貞吉が一時期匿われて治療を受けた所である。
治療にあたったのは町医者の三本住庵【みつもとじゅあん】と長岡藩軍医の
阿部宗達と吉見雲台の3名。
三本住庵が応急手当を施し、阿部宗達と吉見雲台が改めて治療し直したようである。
その後、飯沼貞吉は喜多方市北東部に在る清竜寺の不動堂に潜み、密かに長州藩士 楢崎頼三【ならざき らいぞう】に連れられ、長州で充分な教育を受ける事ができた。

その三本住庵の住まいは東邦銀行の斜め向かいに在ったようだ。現在、小さな公園になっている辺りなのかと思うが標示など何も無い。
墓は東邦銀行向い側の阿弥陀寺にある。
三本住庵は飯沼貞吉の治療にあたった事もあり興味をそそる人物だと思うのだが、その墓はゴチャゴチャと過密的に集約された墓石群の一角にあり、塩川町としてはそれほど重要視していない人物なのかと思われる。
明治戊辰戦死供養塔のような標識も無く冷遇されているように感じた。
三本住庵の戒名は「廣安院濟譽民山寶生居士」。
墓石の背面には「三代三本住庵定茂墓 壽七十二歳」
「明治二十四辛卯年」の文字が読み取れる。
1891年(明治24年)72歳没。
会津地方は幕末期の重要な史跡が有り余るためか、その扱いが粗雑過ぎる。
主だった産業らしい産業も無く観光が大きな収入源にもかかわらず、その集客の源となる歴史資源を大切にしない矛盾を解決しなければ会津に未来は無い。


阿弥陀寺

山号院号寺号 : 鹽泉山 一行院 阿彌陀寺 (塩泉山 一行院 阿弥陀寺)
住所 : 福島県喜多方市塩川町字反町925
駐車場 : あり

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2021年5月26日水曜日

ソースカツ丼 / ドライブイン雪国茶屋 (大沼郡三島町)

ドライブイン雪国茶屋

11時頃到着すると既に駐車場には5台の車が停まっていて、なかなか繁盛しているなぁと思って入店すると、先客はお年寄りが一人だけだった。
店の前に陣取っている複数台の車は雪国茶屋所有の車らしい。
小上がりにテーブルが2つ、土間にテーブルが3つ。
ご飯物やラーメンよりは蕎麦と餅に力を入れている印象。
店は3人のご老人が切り盛りしているせいかノンビリした空気が流れている。急ぐという事が無いようである。

懐かしのドライブイン

この雪国茶屋には“ドライブイン”と言う懐かしい響きに惹かれて訪れた。
本来ドライブインとは車に乗ったまま注文から清算までができる商業施設の事なのだが、日本の場合は、広い駐車スペースを有し、観光バスなどで訪れた団体客にも対応できる飲食店を指す。それも時間と共に変化し、ある程度の駐車スペースが有ればドライブインを名乗る飲食店が増えたが、ファミリーレストランやコンビニエンスストアの台頭などの影響で激減した。
昭和の多くのドライブインは、大衆食堂とほとんど変わらないメニューだったように記憶する。ラーメンにカツ丼、コーラやビールが主力商品だったように思う。


雪国茶屋のソースカツ丼

メニューを拝見すると蕎麦と餅に特に自信が在るようだが、蕎麦はハズレた時のショックが大きいし、餅と言う気分でもないのでソースカツ丼を注文。
先客は餅を食べているご老人一人だけなのに矢鱈と待たされ注文から25分も経過してやっとソースカツ丼が運ばれて来た。
味噌汁と沢庵が5切れ。丼には輪切りレモンが添えられている。
甘味が強めのソースが特徴的な外は極々普通で、肉も普通のロース。
どっからどこまでも普通のソースカツ丼だった。


ドライブイン雪国茶屋

住所 : 福島県大沼郡三島町大字大登字中原1275-1
電話 : 0241-52-2364
定休日 : 不定休
営業時間 : 10:00〜18:00

2021年5月21日金曜日

ラーメン / 松食堂 (喜多方市)

松食堂の喜多方ラーメン

年季の入った建物だが、店内はとても清潔な印象をうける。
メニューはラーメンとチャーシューメン、そしてそれぞれの大盛りのみ。潔い。
喜多方ラーメンにしては薄味な部類のスープはとても穏やかで柔らかな味わいだが、豚が自らの存在をしっかりと主張している。
麺は当然ながら中太縮れ麺。少し柔らかめ。
具は刻みネギとメンマとチャーシューだけと至ってシンプル。
ネギは粗めに刻まれており、ジャキッとした歯応えが良い。
特筆すべきはチャーシューである。
濃い目に味付けされた脂身の少ないバラチャーシューは、柔らか過ぎず適度な歯ごたえを残していてとても美味い。
超有名店の坂内食堂の隣に在りながら、永く商売を続けられているのには訳があるのだと改めて思うに至った一杯だった。


松食堂

住所 : 福島県喜多方市字細田7232
電話 : 0241-22-9904
定休日 : 不定休
営業時間 : 10:30〜15:00 (スープがなくなり次第終了)
駐車場 : なし

2021年5月16日日曜日

きのこ岩 / 浄土松公園 (郡山市)

浄土松公園

浄土松公園【じょうどまつこうえん】は松の木の緑が点在する様が宮城県の松島に似ているところから「陸の松島」と言われてると言う紹介文を見ましたが、そんな風に言われているのを私は聞いたことがない。
あまり人の手を入れずに自然の美しさを活かした公園のようで、駐車場から“きのこ岩”までの道のりは安楽なものではなかった。
ほぼ山道と言っていい傾斜の細道を登ること約15分。
やっと“きのこ岩”に辿り着くが、2010年の東北大震災で崩落し、きのこ感がスッカリ薄れてしまっているのには少なからずガッカリした。

きのこ岩

東北大震災前に見た時はエリンギやシメジのような立派な形をして『なるほど、確かにきのこ岩だわー』と肯いたが随分と形が変わってしまった。
崩壊する前は日本のカッパドキアなどと称されていた。規模は全然違うが、確かにカッパドキア風ではあった。
現在は岩に登ることが禁止されている。以前は登っても良かったと言うことの方が驚きだ。

これからもまた数百万年をかけて風化による奇怪な風景を造形する事だろう。


浄土松公園は8基のバーベキュー用の炉を備えており、公園管理事務所に予約をすれば誰でも自由に使える。
バーベキュー設備のある広場を囲むように桜が植えられており、近くには水芭蕉が咲く小さな水路もある。

浄土松公園【じょうどまつこうえん】

住所 : 福島県郡山市逢瀬町多田野字浄土松1番地の1
電話 : 024-957-3700 (火・木曜日は休み)

2021年5月15日土曜日

飯盛山 / 会津若松市

飯盛山

飯盛山と言えば、本来は会津戦争(1868年)の予備兵力であったはずの白虎隊が実戦に投入され、集団自決した現場として知られている。
また、珍しい建築様式の建造物として知られている“さざえ堂”が在るのも飯盛山。

飯盛山の駐車場

飯盛山へは車でお出でかけの方も多いと思う。
以前は飯盛山近辺の土産物店が観光客を自分の店に引き込もうと、客引きが車道にまで出て手招きをし、夜の街のポン引きのようにしつこく誘導をしていましたが、市や警察に苦情が殺到したようで段々と大人しくなって来たようではあります。
とは言え、無用なトラブルを避けたいとお考えの方々には市営の無料駐車場のご利用をお勧めします。
施設内には飯盛山観光案内所もトイレも有り、目の前にはまちなか周遊バス用のバス停も有り、とても重宝な駐車場です。飯盛山入口まで100メートル足らず。

飯盛山観光順路

飯盛山の参道入口に立ち、延々と続く石段を見て絶望的な気分になる方も多いのではないだろうか。
動く歩道「スロープコンベア」を利用しようかと悩む御仁も居らっしゃるだろう。
実は楽なコースがある。

土産物店を左右に見ながら少し参道を進むと、長い石段の少し手前の左手に「酒井峰治と愛犬クマの像」が在る。
ここを左に折れ、白虎隊記念館と太夫桜の前を通り突き当たりを右に行けば、白虎隊が逃走に使った戸の口堰洞穴へと続く道に出る。
ここからはいくぶん登り坂ではあるがあの石段を登る苦労に比べたら屁のようなものである。
途中にはこの道が本参道である事を示す石柱が立っている。
するってぇと、あの延々と続く石段は裏参道?
その目印となる「酒井峰治と愛犬クマの像」の酒井峰治とは。
戸ノ口原から退却する際に仲間達とはぐれ、山中で飼い犬のクマと出合い、知人の農民らに助けられて帰還を果たし、鶴ヶ城籠城戦に加わった。
明治維新後は一箕村内で精米業を営んだが、1905年(明治38年)、北海道に移り旭川市で再び精米業を営んだ。
その一箕村は、明治になってから何度か編成を繰り返し、1891年(明治24年)2月13日に 蚕養村から一箕村に改称された比較的新しい名称のようだ。
一箕村は現在でも一箕町として残っている。

左に哀愁漂う色あせた立て看板を、右に子育地蔵尊を見て戸ノ口堰洞穴へ出る。

戸ノ口堰洞穴

戸ノ口原から遁走する白虎隊がくぐり抜けた洞穴で、1832年(天保3年)に会津藩が延5万5千人を動員し貫通させた150メートル程の人口洞穴である。
白虎隊がこの洞穴を通り敗走するのは戸ノ口堰洞穴完成の1835年から33年後の事となる。
豊かな水は今でも会津若松市の各地を潤している。
厳島神社の前を過ぎるとさざえ堂が見えて来る。
スロープ登り口の土手には『天高し ピサの斜塔と さざえ堂』の句碑が建っている。
成瀬 櫻桃子【なるせ おうとうし】の句だが、正直言いまして駄句だと思います。

栄螺堂【さざえどう】

さざえ堂は1796年(寛政8年)に建立された六角三層のお堂で、正式名称は「円通三匝堂【えんつうさんそうどう】。
重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」。
その当時、飯盛山には正宗寺【しょうそうじ】という寺があり、そこの住職であった僧郁堂【いくどう】の考案によるもの。
そのゴツゴツとした螺旋建築物の様相は正にサザエその物である。
さざえ堂の内部は登りと下りを二重螺旋構造の一方通行にすることで、互いにすれ違うこと無くお参りできるようになっており、最上部の小さな太鼓橋が登りと下りのスロープを結んでいる。
このスロープは階段ではなく傾斜の付いた板に滑り止めに3cm程度の角材を無数に打ち付けたもので登りに一回り半、下りも一回り半の右回りの一方通行と成っており、上の層を歩いている人の足音がゴトゴトと間近に聞こえる。
このような構造の建物を、恐らくは詳細な図面を書く事もなく作り上げた当時の工たちには恐れ入る。
特筆すべきは、出入り口の彫り物だ。
2匹の龍が立体的に飛び出して柱に絡み付いている。この様な彫り物は他では見た事が無い。
平成8年に国重要文化財に指定されたようだが、その保存状態の悪さと言ったらない。
補修には樹脂波板が打ち付けられ、スロープの補修には合板のような板が使われている。
千社札が所構わず貼りまくられ、至る所に落書きがある。
こんな汚い国重要文化財って他に有るだろうか?
スペインのバロック絵画が素人の修復で台無しになったニュースが有ったが、日本も他国を笑ってなど居られないレベルである。
国も補助金を交付して終わりではなく、技術者を派遣して歴史感を損なわないような修復を施すべきだと思う。

さざえ堂建立当時に在った正宗寺【しょうそうじ】は明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は存在しません。
お寺が在った痕跡を探して付近を歩いていると、家屋の形と言い土地の使い方と言い、昔はお寺だったのではと思われる民家が在りました。
例の、本参道である事を示す石柱が立っている角のお宅がそうではないかと思います。
白虎隊十九士を祀った社宇賀神堂【うがじんどう】の前を通り参道の石段と合流する。


白虎隊士の墓

白虎隊とは会津戦争の際に会津藩によって組織された16〜17歳の予備兵力隊でした。実戦に投入される予定ではなかったので装備は火縄銃に毛の生えた程度の先込め式のゲベール銃を持たされていた。
白虎隊は戸ノ口原の戦いで敗れ飯盛山へ遁走。負傷と疲労困憊によりこれ以上の戦闘は不可能と20名が自刃を決行し19名が死亡。
唯一喉を突いた飯沼貞吉(のちの飯沼貞雄)だけが死に切れず生き残った。

白虎隊は若松城下町から上がる煙を見て城が炎上したと思い込み自決を選んだというのが一般的に知られている話だが、実はこの話、会津出身の陸軍軍人 平石弁蔵【ひらいし べんぞう】により1928年(昭和3年)に刊行された『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって広められたデマのようだ。
しかし、『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』は関係者に丹念に聴き取り調査を行った上で書かれた物のようだ。証言者の記憶違いが原因か。

真相は飯沼貞雄(貞吉)の手記を孫である飯沼一元が2010年頃に親類宅で見つけたことで判明。
それによると、白虎隊の面々は城下町が炎上しているのであって落城したのではない事を知っていたが、入城するにしても更に闘うにしても敵に捕まることになる。生き恥を晒すよりはと飯盛山で自刃を決行したとの事。

「ローマ市寄贈の碑」と「フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑」

ベニート・ムッソリーニが率いた国家ファシスト党と、アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツ。どちらも独裁権力と弾圧を大きな特徴とする。
そんな世界的2大極悪政党からの贈り物を誇らしげに展示しているのには面食らいます。
飯盛山は公共性があるとは言え所詮は個人所有の山ですので、所有者がどこに何を置こうが勝手と言えば勝手なんですが…。

飯沼貞雄翁の墓

飯沼貞吉(のちの貞雄)は1854年4月22日(嘉永7年3月25日)生まれ。
会津藩家老である西郷頼母の妻 千重子は父(飯沼時衛一正)の妹。つまり西郷頼母は叔父にあたる。
15歳の時に16歳と詐り白虎隊に入隊。
飯盛山で自決を試みるが奇跡的に息を吹き返したところ、印出新蔵【いんで しんぞう】の妻 ハツに救出された。
飯沼貞吉は喉へ2度、脇差を刺したブスリと音を確認したが何かが支えて後へ通らず、3度目にしてようやく通った様だがそのまま人事不省となった。
顔見知りの印出ハツに助けられながら塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。この近江屋、現在は東邦銀行塩川支店となっており、敷地には飯沼貞吉ゆかりの地の碑が立っている。
翌朝、町医者の三本住庵【みつもと じゅあん】が手当てをし、夕方には長岡藩軍医の阿部宗達などが治療し一命をとり止めた。
しかし、印出新蔵【いんで しんぞう】の妻 ハツに救出される前に盗賊に身ぐるみを剥がされたり、印出ハツの前に別の女性が助けたりする記録も有るようで事実がどうだったのかは良く解らない。
数日後、塩川から移動し、喜多方市岩月町入田付沼尻の紫雲山来迎院清竜寺(清瀧寺)に匿われる。

この紫雲山清竜寺は喜多方市のだいぶ町外れに在る。
現在でも逃亡者を匿うのに十分に機能するのではないだろうか。
人家が絶えた所で山門が見えて来た。飾り気のない簡素な山門だが、左右には仁王像と思われる像が安置されている。
だいぶ奥にお堂が見えるので行って見ると不動堂とあった。本堂ではないようだ。この奥はどん詰まりで小さな滝が落ちていた。
引き返すと「蘇生白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地」の碑がある。
その数メートル離れた所に小さなお堂が有り、中を見ると「紫雲山清竜寺」と掛かれた板が掲げてあった。
改めて見渡すと、このお堂の前が不自然に広い。ここに本堂が在ったのかも知れない。
野山と古い山門がある風景は、いつまで見ていても見飽きることがない。
それにしても、首を3度も突き刺しておびただしい流血で意識が薄れる中を、飯盛山から塩川、塩川から喜多方の山奥まで30km強を移動した生命力には驚く。

長州藩士 楢崎頼三【ならざき らいぞう】が長州へ連れて帰り充分な教育を受ける事ができた。
飯沼貞吉が長州へ行った事は会津でも長州でも極限られた者しか知らなかったようで、会津では貞吉の母だけが知っていたらしい。
貞吉の伯父さんにあたる西郷頼母には伝えても良さそうなものだが。
明治維新後は名を貞雄と改名、逓信省通信技師となり仙台市で死亡。本人の意向により遺髪と義歯(抜け落ちた歯と言う説もある)が飯盛山に埋葬された。
飯沼貞吉はジョン万次郎の次くらいに波乱万丈の人生を歩んだ人ではないかと思う。

白虎隊自刃の地

飯盛山中腹にある自刃の地。
会津戦争当時は高い建物も無く鶴ヶ城(若松城)は容易く目視できたのかも知れないが、現在では肉眼での確認はなかなか難しい。
白虎隊が自刃したのは慶応4年8月23日。現代の暦では1868年10月8日となる。木々の葉も落ち始める頃である。兵糧は尽き、洞穴の冷たい水にかじかみ、遥か彼方に見える天守閣は砲撃により激しく傷み、城下町は燃えさかる。自ら命を絶ちたくなるのも無理のない話である。
このような歴史的に大きな意味のある土地を個人の管理に任せておいて良いものなのか。さざえ堂だけでも公的に十分な管理をすべきだと思う。

飯盛山

住所 : 福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢155
営業時間 : 日の出〜日没
定休日 : なし
料金 : 無料 (スロープコンベア・さざえ堂・各資料館は有料)
駐車場 : 市営観光客専用駐車場の利用を推奨(無料)

無料駐車場・まちの駅飯盛山

住所 : 福島県会津若松市一箕町大字八幡字牛ケ墓244-5
利用時間 : 8時30分〜17時15分まで
料金 : 無料
台数 : 約80台
※予約不可

紫雲山清竜寺 

住所 : 福島県喜多方市岩月町入田付
料金 : 無料
駐車場 : なし


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