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2021年6月1日火曜日

三本住庵の墓 / 阿弥陀寺 (喜多方市塩川町)

飯沼貞吉を救った三本住庵の墓がある喜多方市塩川町の阿弥陀寺


喜多方市塩川町

今でこそ塩川町は喜多方市に併合されてしまったが、戊辰戦争当時の塩川町は米沢街道の宿場町として栄えていたようだ。
当時は新潟から阿賀川を通って米や塩などを積んだ船が盛んに行き来していたと言う。
現在でも当時の名残りが有るせいか、塩川町は小さいながら会津若松市などよりもずっと趣きがある町並みで、歩いてみると面白い。
会津新選組陣所が有って斎藤一も長逗留したと言うが、現在はそれを示す標示も無い。とても勿体ない話である。

三本住庵【みつもとじゅあん】

現在の東邦銀行塩川支店は会津藩塩川本陣が置かれた場所で、自害を試みたが運良く蘇生した白虎隊士 飯沼貞吉が一時期匿われて治療を受けた所である。
治療にあたったのは町医者の三本住庵【みつもとじゅあん】と長岡藩軍医の
阿部宗達と吉見雲台の3名。
三本住庵が応急手当を施し、阿部宗達と吉見雲台が改めて治療し直したようである。
その後、飯沼貞吉は喜多方市北東部に在る清竜寺の不動堂に潜み、密かに長州藩士 楢崎頼三【ならざき らいぞう】に連れられ、長州で充分な教育を受ける事ができた。

その三本住庵の住まいは東邦銀行の斜め向かいに在ったようだ。現在、小さな公園になっている辺りなのかと思うが標示など何も無い。
墓は東邦銀行向い側の阿弥陀寺にある。
三本住庵は飯沼貞吉の治療にあたった事もあり興味をそそる人物だと思うのだが、その墓はゴチャゴチャと過密的に集約された墓石群の一角にあり、塩川町としてはそれほど重要視していない人物なのかと思われる。
明治戊辰戦死供養塔のような標識も無く冷遇されているように感じた。
三本住庵の戒名は「廣安院濟譽民山寶生居士」。
墓石の背面には「三代三本住庵定茂墓 壽七十二歳」
「明治二十四辛卯年」の文字が読み取れる。
1891年(明治24年)72歳没。
会津地方は幕末期の重要な史跡が有り余るためか、その扱いが粗雑過ぎる。
主だった産業らしい産業も無く観光が大きな収入源にもかかわらず、その集客の源となる歴史資源を大切にしない矛盾を解決しなければ会津に未来は無い。


阿弥陀寺

山号院号寺号 : 鹽泉山 一行院 阿彌陀寺 (塩泉山 一行院 阿弥陀寺)
住所 : 福島県喜多方市塩川町字反町925
駐車場 : あり

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2009年9月8日火曜日

藤田五郎の墓 / 阿弥陀寺 (会津若松市)

 会津若松市の現在の繁華街は、鶴ヶ城から会津若松駅へと続く新明通りだが、江戸の頃は鶴ヶ城北西部の七日町付近までが城下町として賑わっていたらしい。

阿弥陀寺はJR只見線の七日町(なぬかまち)駅の真ん前に在る。


この寺には藤田五郎の墓がある。

藤田五郎とは、新撰組三番隊組長である斎藤一が明治維新後に使った名前である。

藤田五郎は本名を山口一という。その後、斎藤一・山口二郎・一瀬伝八と変え、明治の初め頃に藤田五郎と改名した。

いずれの名前にも数字が入っているが、どういう拘りが有ったのだろうか。

藤田五郎の墓 / 阿弥陀寺 (会津若松市)

父、山口祐助は明石藩(現在の兵庫県明石市あたり)の浪人で、江戸に出て来て御家人の株を買ったらしい。

藤田五郎は父が江戸に出てきてから生まれたとするのが通説。

近藤勇とは道場試衛館の頃からの知り合いだったが、いつ頃から正式に新撰組の隊員と成ったかについては、藤田五郎の行動に不明な点が多すぎる事と、新撰組自体が統一された行動をとっていない事などにより明確になっていない。

戊辰戦争時には会津藩の指揮下で白河口の戦い・母成峠の戦いに参戦。

会津藩の降伏後は、塩川(現:福島県喜多方市)・高田(現:新潟県上越市)で謹慎生活を送った。

その後、青森県五戸町に移り、2度の結婚をする。

東京で警視官に採用され、西南戦争に参戦。

1891年に退職し東京高等師範学校などに警備員として勤務し、1915年9月28日死去。


「波乱万丈の生涯」とは、彼のような事を言うのだろう。

本人の希望により会津若松市の阿弥陀寺に墓が建てられたらしいのだが、なぜ彼がこの寺を指定したのかなどは不明。

この阿弥陀寺には明治初期に鶴ヶ城から移築された御三階が在る。


■□■ 店舗情報 ■□■

寺名 : 阿弥陀寺

住所 : 福島県会津若松市七日町4-20

電話 : 0242-27-7445

駐車場 : 無し

写真 : 藤田五郎の墓