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2009年9月8日火曜日

藤田五郎の墓 / 阿弥陀寺 (会津若松市)

 会津若松市の現在の繁華街は、鶴ヶ城から会津若松駅へと続く新明通りだが、江戸の頃は鶴ヶ城北西部の七日町付近までが城下町として賑わっていたらしい。

阿弥陀寺はJR只見線の七日町(なぬかまち)駅の真ん前に在る。


この寺には藤田五郎の墓がある。

藤田五郎とは、新撰組三番隊組長である斎藤一が明治維新後に使った名前である。

藤田五郎は本名を山口一という。その後、斎藤一・山口二郎・一瀬伝八と変え、明治の初め頃に藤田五郎と改名した。

いずれの名前にも数字が入っているが、どういう拘りが有ったのだろうか。

藤田五郎の墓 / 阿弥陀寺 (会津若松市)

父、山口祐助は明石藩(現在の兵庫県明石市あたり)の浪人で、江戸に出て来て御家人の株を買ったらしい。

藤田五郎は父が江戸に出てきてから生まれたとするのが通説。

近藤勇とは道場試衛館の頃からの知り合いだったが、いつ頃から正式に新撰組の隊員と成ったかについては、藤田五郎の行動に不明な点が多すぎる事と、新撰組自体が統一された行動をとっていない事などにより明確になっていない。

戊辰戦争時には会津藩の指揮下で白河口の戦い・母成峠の戦いに参戦。

会津藩の降伏後は、塩川(現:福島県喜多方市)・高田(現:新潟県上越市)で謹慎生活を送った。

その後、青森県五戸町に移り、2度の結婚をする。

東京で警視官に採用され、西南戦争に参戦。

1891年に退職し東京高等師範学校などに警備員として勤務し、1915年9月28日死去。


「波乱万丈の生涯」とは、彼のような事を言うのだろう。

本人の希望により会津若松市の阿弥陀寺に墓が建てられたらしいのだが、なぜ彼がこの寺を指定したのかなどは不明。

この阿弥陀寺には明治初期に鶴ヶ城から移築された御三階が在る。


■□■ 店舗情報 ■□■

寺名 : 阿弥陀寺

住所 : 福島県会津若松市七日町4-20

電話 : 0242-27-7445

駐車場 : 無し

写真 : 藤田五郎の墓