2021年5月15日土曜日

紫雲山来迎院清竜寺 / 喜多方市

紫雲山来迎院清竜寺


飯盛山で自決を試みたが奇跡的に息を吹き返した白虎隊士の飯沼貞吉が匿われた喜多方市の寺。

喜多方市の町外れの集落から更に田園地帯を進み、だいぶ人里を離れた頃にほんの数軒だけの小さな集落に出る。その集落のどん詰まり辺りで山門が見える。
山門と辺りの風景とが相まって、一種の桃源郷的な美しい景色を作り出している。
質素な造りながらも仁王像と思われる像が左右に安置されている。
50メートルほど先にお堂が在るので行ってみたが「不動堂」と書いてあった。その奥には小さな滝があるだけで本堂が何処にも無い。
山門まで引き返すと小さな小屋があり、奥に「紫雲山清竜寺」と書かれた板が掲げられてあった。
廃寺になったのか本堂が無い。
近くには「蘇生白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地」と書かれた石碑が立っていた。
飯沼貞吉は不動堂に潜んでいたらしい。

『雷光院紫雲山清龍寺』の文字が読み取れる。本堂がいつ無くなったのかも正しい院号寺号も不明の謎だらけの寺。


紫雲山来迎院清竜寺

山号院号寺号 : 紫雲山 来迎院 清竜寺
住所 : 福島県喜多方市岩月町入田付
駐車場 : なし
 (清瀧寺の表記もある)

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紫雲山来迎院清竜寺の四季


2021年5月11日火曜日

土津神社 / 耶麻郡猪苗代町

土津神社と保科正之と磐椅神社

土津神社【はにつじんじゃ】

土津神社【はにつじんじゃ】は猪苗代町 見祢山の麓にある神社で、会津藩初代藩主 保科正之【ほしな まさゆき】を祀っている。
神社の名前は江戸時代前期の神道家 吉川惟足【よしかわ これたり】から「土津【はにつ】」の霊神号を送られた事に由来する。
霊神号とは仏教での戒名に相当するもの。
保科正之は2代将軍 徳川秀忠の四男として1611年(慶長16年)に生まれた。徳川家康の孫にあたる。
妾腹の子だったので不遇な幼少期を送るが、異母兄弟で長兄である家光が鷹狩りの際に偶然に正之の存在を知ったのを切っ掛けに、その後の家光は何かと正之を贔屓にした。
1643年に会津藩23万石の大名に引き立てられる。
その後は、子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
1651年、病床の家光を見舞った際に息子(家綱)の面倒を観てくれるよう直接頼まれた事に感銘し、徳川家への忠誠を誓ったルール「会津家訓十五箇条」を定めた。
会津藩の最後の藩主 松平容保【まつだいら かたもり】は、家老 西郷頼母【さいごう たのも】の忠言に耳を傾ける事をせずこの家訓を頑なに守った結果、京都守護職を断る事ができなくなり、更には新選組を雇い入れ、挙げ句の果てに幕府側の中心的存在として薩長軍と戦い悲惨な結末を招く事になる。

保科正之が1673年に死去すると、遺言通り磐椅神社【いわはしじんじゃ】の北西に葬られ、その2年後の1675年に墓所から南へ400m強の位置に土津神社が造営された。
その当時の土津神社は日光東照宮と肩を並べる絢爛豪華な造りだったようだが、戊辰戦争時に全焼してしまった。
敗戦後、御神体は斗南藩へ移し祀られるが、1871年の廃藩置県により斗南藩が廃されたため猪苗代へ戻り、一時的に磐椅神社に祀られた。
1880年に現在の場所に土津神社が再建され、再び御神体が遷された。

鉛套弾

土津神社境内には日清日露戦で勝利した記念品として奉納された鉛套弾【えんとうだん】が祀られてある。
鉛套弾とは柔らかい鉛でコーティングされた弾丸で、銃身内部に刻まれたライフリングに食い込ませる事により、発射された弾丸に高速回転を与えて弾道を安定させるものである。

正之は生前、死後は磐椅神社の末社と成ることを望んでいた。そのような理由で土津神社は磐椅神社の末社となっている。

土津神社から保科正之の墓がある奥の院までは435mもの参道石畳が続く。
少し凹凸の有る石畳は緩やかな登り坂が続き、所々に[⚠熊出没注意!]
の標示が有る。
奥の院の墓所は小高い丘の上に在り、墓とは思えない奇妙な形をしている。

土津神社 【はにつじんじゃ】

住所 : 福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山3
駐車場 : なし (土津神社近くの無料町営駐車場を利用)


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2021年5月6日木曜日

磐椅神社 / 耶麻郡猪苗代町

大鹿桜で知られる磐椅神社

Google Mapでは辿り着けない磐椅神社【いわはしじんじゃ】

土津神社近くの町営無料駐車場から、土津神社を左手に見ながら坂道を登って行くと[➔ 磐椅神社 0.5km]の標識が有るので、それに従い、車1台分程度の幅の道を水路に沿ってクネクネと林の中を暫く
進むと辿り着く。
Google Mapにはこの道が表示されず、磐椅神社北側の雑木林の中をかき分けて進むようなルートが示される。
参拝の際はYahoo Mapのご利用をお薦めします。
この道を歩くと所々に[熊出没注意!]の看板が有る。
磐椅神社の前のロータリーのように成っている所で、ヒヅメが付いた鹿の脚と思われる骨が落ちていた。
熊に襲われたのだろう。本当に熊が出没するようです。くれぐれもご注意下さい。

途中、田中正玄の墓が在る。
田中正玄とは保科正之の時代の家老で、会津を離れがちな保科正之に代わり執政した人物とのこと。


磐椅神社の桜と湧き水

4世紀後半頃、伝説上の人物である武内宿禰が磐椅山(現在の磐梯山)の山頂に祭神を祀り、8世紀前半に現在の場所に移されたようである。
その祭神は民話に登場する足長と手長という魔物で、大山衹神【おおやまずみのかみ】と埴山姫命【はにやまひめのみこと】の事。
また別の言い伝えでは、磐梯山は昔から度々噴火し、麓の村々に大きな被害を与えるために病悩山【やもうさん】と呼ばれていた。その山頂に棲み悪行を繰り返す手長足長を弘法大師が磐梯明神として封印した。それを祀ったのが磐椅神社の始まりという話もあるようだ。
歴史が古く格式の高い神社なのだが、残念な事に現在はだいぶ見すぼらしくなってしまっている。
境内には会津五桜の一つである「大鹿桜」と、樹齢800年以上の鳥居杉に根付いた寄生木「えんむすび桜」がある。
「えんむすび桜」には良縁を願ってか、5円玉が幾枚も括り付けられてあった。
この杉の木、元々は通りを挟んで左右に対で生えていたが、落雷や長雨の影響で左側の杉の木は倒れてしまった。
「宝の水」と名付けられた湧き水は、日本テレビ「嵐にしやがれ」内の企画で相葉と小峠の両氏がコーヒーを淹れる際に使用した。

保科正之との関係

磐椅神社は会津藩祖である保科正之公が深く信仰した神社で、死んだら磐椅神社の近くに葬ってほしいとの遺言通り、1673年に磐椅神社から北西へ約500mの見祢山の麓に葬られた。
それから2年後の1675年、保科正之の墓から南へ400m強の場所に造営されたのが土津神社で、磐椅神社の末社となっている。


磐椅神社【いわはしじんじゃ】

住所 : 福島県耶麻郡猪苗代町西峰6199
駐車場 : なし (土津神社近くの無料町営駐車場を利用)

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2021年5月1日土曜日

極太手打ちラーメン / 食堂なまえ (喜多方市) 2021

食堂なまえの極太手打ちラーメン

食堂なまえの極太手打ちラーメンは麺もスープも他に類のない特徴を有しながら、その丼風景はあくまでも物静かである。
スープは透明感度が高く澄んでいるのに滋味に富んだ奥深い味わいがある。
すんなりと身体に染み込んで来るような優しさと柔らかさ、それに僅かだが華やかさも持ち合わせている。

麺はまるで饂飩のような太さだが、その食感はうどんというよりはスイトンに近い。
太いうえに縮れ加工が施されているのでツルツルとは食べれない。オノマトペで表すならワッキラワッキラ・ワッシワッシといったところだ。
歯応えは、讃岐うどんのように頑なに咀嚼を拒み続けるようなものではない。
女性に例えるならば、極太ラーメンは「それ以上近寄れば舌を噛み切って自害して果てます!」と言うような色気も素っ気も無い事は言わないタイプである。
拒みつつも徐々に咀嚼の力を受け入れる。嫌よ嫌よも好きのうち的な熟れた拒み方をする。たまらないよね。

具は、濃い目の味が染み込んだひと口大のチャーシュー、刻みネギ、ナルト、自家製と思われる薄味のメンマである。
これみよがしの演出など一切無い、シンプルだが心が落ち着く丼風景である。


食堂なまえの店内

小さくて狭い店なのでソーシャルディスタンスを保つのは難しい。
テーブルと椅子が新しくなりアクリル板が立てられて、昭和の大衆食堂的雰囲気の一部が損なわれてしまったのが残念である。
下の写真は2010年にお邪魔した際のテーブルとイス。
その当時は老夫婦が切り盛りしていたが現在は息子さんと思しき中年男性に代わっていた。
壁にはメニューが沢山貼り付けられていますが、この食堂なまえでラーメン以外のメニューを食べる客が居るのだろうか。
お品書きの“当店おすすめ”の文字には「注文はラーメンだけにしてくれるとありがたい」と言う店主の気持ちがさり気なく現れているように感じる。

食堂なまえの丼

過去の写真と見比べてみると丼の縁の模様が段々と薄れて来たのが分かる。丁寧に使い続けられているのがうかがえる。
↑2007年
↑2010年
↑2021年



食堂なまえ

住所 : 福島県喜多方市永久7693-3
電話 : 0241-22-6294
定休日 : 不定休
営業時間 : 10:00~18:00
 注)スープが無くなり次第終了
駐車場 : 4台


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