土津神社と保科正之と磐椅神社
土津神社【はにつじんじゃ】
土津神社【はにつじんじゃ】は猪苗代町 見祢山の麓にある神社で、会津藩初代藩主 保科正之【ほしな まさゆき】を祀っている。
神社の名前は江戸時代前期の神道家 吉川惟足【よしかわ これたり】から「土津【はにつ】」の霊神号を送られた事に由来する。
霊神号とは仏教での戒名に相当するもの。
保科正之は2代将軍 徳川秀忠の四男として1611年(慶長16年)に生まれた。徳川家康の孫にあたる。
妾腹の子だったので不遇な幼少期を送るが、異母兄弟で長兄である家光が鷹狩りの際に偶然に正之の存在を知ったのを切っ掛けに、その後の家光は何かと正之を贔屓にした。
1643年に会津藩23万石の大名に引き立てられる。
その後は、子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
1651年、病床の家光を見舞った際に息子(家綱)の面倒を観てくれるよう直接頼まれた事に感銘し、徳川家への忠誠を誓ったルール「会津家訓十五箇条」を定めた。
会津藩の最後の藩主 松平容保【まつだいら かたもり】は、家老 西郷頼母【さいごう たのも】の忠言に耳を傾ける事をせずこの家訓を頑なに守った結果、京都守護職を断る事ができなくなり、更には新選組を雇い入れ、挙げ句の果てに幕府側の中心的存在として薩長軍と戦い悲惨な結末を招く事になる。
保科正之が1673年に死去すると、遺言通り磐椅神社【いわはしじんじゃ】の北西に葬られ、その2年後の1675年に墓所から南へ400m強の位置に土津神社が造営された。
その当時の土津神社は日光東照宮と肩を並べる絢爛豪華な造りだったようだが、戊辰戦争時に全焼してしまった。
敗戦後、御神体は斗南藩へ移し祀られるが、1871年の廃藩置県により斗南藩が廃されたため猪苗代へ戻り、一時的に磐椅神社に祀られた。
1880年に現在の場所に土津神社が再建され、再び御神体が遷された。
鉛套弾
土津神社境内には日清日露戦で勝利した記念品として奉納された鉛套弾【えんとうだん】が祀られてある。
鉛套弾とは柔らかい鉛でコーティングされた弾丸で、銃身内部に刻まれたライフリングに食い込ませる事により、発射された弾丸に高速回転を与えて弾道を安定させるものである。
正之は生前、死後は磐椅神社の末社と成ることを望んでいた。そのような理由で土津神社は磐椅神社の末社となっている。
土津神社から保科正之の墓がある奥の院までは435mもの参道石畳が続く。
少し凹凸の有る石畳は緩やかな登り坂が続き、所々に[⚠熊出没注意!]
の標示が有る。
奥の院の墓所は小高い丘の上に在り、墓とは思えない奇妙な形をしている。
土津神社 【はにつじんじゃ】
住所 : 福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山3
駐車場 : なし (土津神社近くの無料町営駐車場を利用)