2020年12月10日木曜日

慶徳寺 / 喜多方市

慶徳寺

源翁心昭は喜多方市熱塩加納の、空海が開基とされる真言宗寺院 五峯山慈眼寺を1375年に曹洞宗に改宗して護法山示現寺と改めた。
その7年前の1368年に、喜多方市慶徳に庵を結んでいる。

ある時その庵に蘆名詮盛が狩猟で訪れたところ、庵の辺りから紫雲が湧いていることを見付け、紫雲山慶徳寺と号して源翁心昭を住職とした。

1396年に示現寺から慶徳寺に戻ったところ、那須の殺生石の霊が現れて白狐に変化した後に十一面観音となって前の山に飛んで行った。
そのために山号を紫雲山から巻尾山へと改めた。
そして白狐の霊を祀るために神社が建てられ、前の山は稲荷山と名付けられた。そこ在るのが現在の慶徳稲荷神社。

今でこそ喜多方市慶徳は田畑と森林が広がる長閑な地域だが、源翁心昭がこの地に来た頃にはまだ新宮城が存在していたし、長床で知られる新宮熊野神社も盛大で、案外賑わっていたのかも知れない。

慶徳寺の最大の魅力は、なんと言っても茅葺きの山門である。
赤く熟した柿や、周りの葉を落とした木々がよく似合っている。
おそらく四季折々それぞれの風景に溶け込む佇まいに違いない。
山門から本堂までの間にある苔むした数段の石段と石仏がまた良い。

山門に比べて本堂の方は、民家のような造りで寺らしい雰囲気に欠けていて残念である。

□■□ 慶徳寺情報 □■□

山号寺号 : 巻尾山 慶徳寺【けいとくじ】
住所 : 福島県喜多方市慶徳町豊岡字今町288
電話 : 0241-24-5323

《関連記事》
示現寺 / 喜多方市
玄翁石 / 耶麻郡猪苗代町
伊佐須美神社 / 大沼郡会津美里町


慶徳寺の四季


2020年12月7日月曜日

示現寺 / 喜多方市

那須町湯本の殺生石を打ち砕き、その後も飛び散った破片を執拗に追っては更に打割る源翁心昭(玄翁心昭)とはどのような人物だったのだろうか。

1329年(嘉暦4年)2月19日生まれ。心昭が本名。
生誕地は新潟県西蒲原郡弥彦村の矢作とも荻野とも。

得度は国上寺でとされている。
国上寺と言えば良寛が住まいとした五合庵で知られる古刹だが、国上寺のホームページを拝見しても源翁心昭に関しては一言も触れていない。
新潟には他にも国上寺が在るのだろうか。

源翁心昭と会津地方との関わりだが、諸国行脚をしていたが1367年に現在の喜多方市慶徳に庵を結ぶ。
その後も行脚を続け、空海が開基とされる真言宗寺院 五峯山慈眼寺を1375年に再興し、曹洞宗に改宗して護法山示現寺と改めた。
源翁心昭47歳の時である。


1385年、源翁心昭56歳の時、後小松天皇の勅命により那須殺生石の済度(迷い苦しんでいる者を救って、悟りの境地に導く事)を行い、「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」の号が授けられた。
この時の後小松天皇はまだ9歳。
1377年生まれの後小松天皇は5歳で即位し、父親である後円融上皇による院政が行われた。
1393年に後円融上皇が崩御すると、足利義満が事実上の上皇となり、後小松はその下での傀儡天皇となった。

一休さんでお馴染みの一休宗純は後小松天皇の御落胤との説がある。
一休宗純は1394年生まれなので、後小松天皇が17歳の時の子という事になる。

源翁心昭はその後もほぼ全国を行脚し、一休さんが6歳で京都の安国寺に入門した1,400年に72歳で亡くなった。
墓は喜多方市の護法山 示現寺にある。


示現寺は喜多方市の熱塩加納町にある。
熱塩加納町は2006年に喜多方と合併するまでは耶麻郡熱塩加納村であった。
熱塩温泉と日中温泉の2つの温泉を持つ農業中心の村だった。
その熱塩温泉の元湯の権利を示現寺が持っており、示現寺の駐車場脇には示現寺所有の足湯浴場がある。

足湯浴場の右側には「源翁湯」という浴場へ通じるドアがあるが、中は殺風景で狭く、小さな湯船が有るだけだった。


示現寺は周りを高い木々に囲まれ鬱蒼としている。
階段には苔が生えていて何ともいい具合いである。

風情のある鐘楼の下が物置代わりに使われており、除雪用と思われる小型ローダーが入っていた。

本堂脇を通り更に進むと殺生石の案内板が有るが、池を囲む石のどれが座禅石(殺生石)なのかは分からなかった。
階段をさらに進むと開山堂があり、ここには源翁心昭作の木像が安置されている。

開山堂 / 示現寺 (喜多方市)
この開山堂の右手の高台に木柵で囲われているのが源翁心昭のお墓である。


□■□示現寺情報□■□
山号寺号 : 護法山 示現寺 【じげんじ】
住所 : 福島県喜多方市熱塩加納町熱塩甲795

《関連記事》

2020年11月26日木曜日

玄翁石 / 耶麻郡猪苗代町

伊佐須美神社に在る殺生石

岩代國一之宮 伊佐須美神社に在る殺生石稲荷神社には大小2つの石が祀られている。
これは源翁心昭(玄翁心昭)が那須町湯本にある殺生石を打ち砕いた時に飛び散った物のひとつだが、耶麻郡猪苗代町にも同様に那須から飛んで来た殺生石の一部と伝わる玄翁石【げんのういし・げんのうせき】がある。

猪苗代町の玄翁石

殺生石稲荷神社の石よりもはるかに大きく、表面にはノミの跡の様な穴や縦横の線がある。
後に源翁心昭は猪苗代町に訪れ、那須から飛来した石を更に2つに割った。玄翁石にはその時、踏ん張った時に着いた源翁和尚の右足の跡と言われる窪みがある。

耶麻郡猪苗代町の玄翁石の場所

辺りには場所や地元に残る言い伝えなどを記した案内板などは全く無く、非常に分かりにくい場所に在る。
福島県道7号線(猪苗代塩川線)の麻郡猪苗代町磐根土田3444の角を北へ折れ、100m強を進むとクランクになる。
左折し、非舗装道を200m程進むと右折する道が現れる。
そこで左側を見ると道とは言いかねる畑の通路がある。
その通路を南へ歩くと玄翁石が唐突に現れる。
ご堪能ください。

■□■ 玄翁石情報 ■□■

石名 : 玄翁石 (げんのういし・げんのうせき)

住所 : 福島県耶麻郡猪苗代町磐根(以下不明)
駐車場 : なし

《関連記事》

見祢の大石 / 猪苗代町

慶徳寺 / 喜多方市

示現寺 / 喜多方市

伊佐須美神社 / 大沼郡会津美里町

2020年11月23日月曜日

ペグマタイト岩脈と鹿島大神宮 / 郡山市

ペグマタイトとは鬼御影とも呼ばれ、マグマが冷えて固まった岩石で、大きな結晶が特徴。
昭和の前半には焼き物の釉薬やガラス類の材料として採掘されていて、阿武隈山地は国内でも有数の大産出地だったようだ。
現在ではほぼ採掘され尽くされた状態とのことだが、鹿島大神宮の境内の推定埋蔵量約14,000トンものペグマタイトは、古来日本の磐座・磐境の信仰による所の御神体という事もあり、採掘を免れたらしい。

鹿島大神宮は781年(天応元年)9月15日に、茨城県鹿嶋市の鹿島神宮より勧請したのが始まり。
毎年4月の例大祭では境内の神楽殿において、神話にある所作を舞う出雲系神楽である太々神楽が奉納される。
令和2年は、4月18日と19日、および9月20日の午前10時から神楽奉納があった。

写真を見ると、流れてくる溶岩が社殿の寸前で止まったように見えるが、そういう訳ではない。

境内のあちらこちらにはペグマタイトが土中から顔を覗かせていて、小さな社が点在している。

仏様が線刻された巨石が境内のあちこちに在る岩角山岩角寺や、非日常的異空間民芸集落の高柴デコ屋敷は比較的近くに在る。

■□■ 岩脈・神社情報 ■□■
神社名 : 鹿島大神宮
岩脈名 : ペグマタイト岩脈 (天然記念物)
住所 : 福島県郡山市西田町丹伊田宮作239

2020年11月20日金曜日

龍興寺 / 大沼郡会津美里町

伊佐須美神社の天海大僧正手植桧木でスッカリ天海モードに成ってしまったので、伊佐須美神社から約1kmほど北に位置する龍興寺にお邪魔した。
龍興寺は天海大僧正が出家得度した寺であり、境内には天海の両親の墓が在る。

2007年7月にお邪魔した事があり、その時は蓮の花は開いて居なかったものの池いっぱいに蓮の葉が広がっていたが、11月も後半に差し掛かった今は、葉も茎も茶色に枯れて、池の周りに配置された石に生えた苔の緑が際立っている。

この龍興寺は、経の一文字毎、下に蓮の葉の装飾を書き入れた国宝一字蓮台法華経開結が保存されている事で知られている。

龍興寺 / 大沼郡会津美里町

天海が随風という名で修行していた頃、夢のお告げで「浮目」と呼ばれる水田から土仏観音像を発見した。1559年に浄林と言う方がこの土仏に似せた木造の観音像をつくり、その胎内に土仏を納めて祀ったとされている。
今は龍興寺境内の浮身観音堂に秘仏として納められている。


天海僧正のご両親のお墓をお参りしようと思ったが、場所を思い出せずウロウロしていたら、運良くご住職に声をかけられ、墓の場所を教えてもらって無事にお参りができた。
ご両親の墓は、浮身観音堂のほぼ真西に在る。
大僧正の両親の墓だからといって仰々しくしていない処が好感が持てる。


□■□龍興寺情報□■□
山号寺号 : 道樹山 龍興寺
住所 : 福島県大沼郡会津美里町龍興寺北甲2222-3
電話 : 0242-54-2446
駐車場 : 寺の裏手に在り
定休日 : 年中無休

※国宝拝観には御志納金及び事前予約が必要。直接龍興寺へご予約ください。

《関連記事》

2020年11月18日水曜日

伊佐須美神社 / 大沼郡会津美里町

Googleマップで伊佐須美神社を見ていて、その境内には「天海大僧正手植桧木、殺生石稲荷神社、縁結びの紅葉」など気になる物が点在している事に気付いた。

天海大僧正は安土桃山時代から江戸時代初期にかけて実在した天台宗の僧だが、生まれ出自については諸説ありながらも、100歳以上の長寿だったと伝えられている怪僧である。
その天海僧正が植えた桧なら一目見たいものだ。

殺生石と言えば栃木県那須町の那須湯本温泉近くの物が有名だが、それと関わりが有るのだろうか。
栃木県のそれと同様に今も火山性ガスを噴出しているのだろか。

興味が湧いて来た!


と言うことで伊佐須美神社に到着。
大きな木が立ち並び、歴史のある神社の趣きタップリ。

駐車場の傍には池があり、鯉や鴨が泳いでいる。人が通ると鯉が水面に顔を出してエサをねだる。
カクカクと曲がっている橋も良い感じ。
駐車場の南東の方角に殺生石稲荷神社があるが、お社はずいぶんと新しい。
伊佐須美神社は2008年10月の3日と29日に立て続けに二度の火災にあい、本殿・神楽殿・神饌所を焼失した。
殺生石稲荷神社もその時に焼失したのだろうか。
お社の裏手には大小2つの石があるが、これが殺生石か。
特にガスを噴出している様子はない。
ハチマキのようにぐるりとシメ縄を廻され、その妖力を封じ込められてしまったのか。
1383年(至徳2年)に源翁和尚が那須で岩石を打ち砕いた時に飛んで来たと書いてあるが、至徳2年は西暦1385年のはず。
大きな石が飛んで来るところを目撃した村人はさぞや驚いた事だろう。
それにしても、那須から飛んで来たと何故分かったのだろうか。
山門を潜る直前の左側に、別世界へ繋がっているような心惹かれる趣のある風景。
山門は「桜門」と言い、大きく立派だがまだ新しい。
仮本殿の近くには焼失した建物の基礎部分だけが残って苔が生えている。
カンボジア辺りの仏教遺跡を見るかのようで、これはこれで趣がある。
生者必滅会者定離の理を現しているようで、真新しく華奢な仮本殿よりも有難味さえ感じられるようだ。
仮本殿の右手を抜けて奥に行くと天海大僧正手植桧木と縁結びの紅葉が寄り添うように立っている。
桧木も紅葉もその由来を記した立て札などは無い。どのような謂れがあるのか。
天海僧正は1536年生まれで1643年11月13日死亡らしいが、この桧木を死ぬ間際に植えたとしても樹齢は380年ほどになっているはず。
「樹齢380年の桧ってこの程度の大きさなの?」と言うのが素直な感想でした。
東へ抜ける細道は銀杏が植えてあり、銀杏並木と言うほどではありませんが、黄金色の落ち葉が屋根やら細道やらに彩りを添えている。
伊佐須美神社から約1kmの所には、天海僧正に関わりの深い「龍興寺」がある。
そちらへもお邪魔します。

□■□神社情報□■□
名称 : 岩代國一之宮 伊佐須美神社
住所 : 福島県大沼郡会津美里町宮林甲4377

《関連記事》