那須町湯本の殺生石を打ち砕き、その後も飛び散った破片を執拗に追っては更に打割る源翁心昭(玄翁心昭)とはどのような人物だったのだろうか。
1329年(嘉暦4年)2月19日生まれ。心昭が本名。
生誕地は新潟県西蒲原郡弥彦村の矢作とも荻野とも。
得度は国上寺でとされている。
国上寺と言えば良寛が住まいとした五合庵で知られる古刹だが、国上寺のホームページを拝見しても源翁心昭に関しては一言も触れていない。
新潟には他にも国上寺が在るのだろうか。
源翁心昭と会津地方との関わりだが、諸国行脚をしていたが1367年に現在の喜多方市慶徳に庵を結ぶ。
その後も行脚を続け、空海が開基とされる真言宗寺院 五峯山慈眼寺を1375年に再興し、曹洞宗に改宗して護法山示現寺と改めた。
源翁心昭47歳の時である。
1385年、源翁心昭56歳の時、後小松天皇の勅命により那須殺生石の済度(迷い苦しんでいる者を救って、悟りの境地に導く事)を行い、「勅特賜 能照法王禅師源翁心昭大和尚」の号が授けられた。
この時の後小松天皇はまだ9歳。
1377年生まれの後小松天皇は5歳で即位し、父親である後円融上皇による院政が行われた。
1393年に後円融上皇が崩御すると、足利義満が事実上の上皇となり、後小松はその下での傀儡天皇となった。
一休さんでお馴染みの一休宗純は後小松天皇の御落胤との説がある。
一休宗純は1394年生まれなので、後小松天皇が17歳の時の子という事になる。
源翁心昭はその後もほぼ全国を行脚し、一休さんが6歳で京都の安国寺に入門した1,400年に72歳で亡くなった。
墓は喜多方市の護法山 示現寺にある。
示現寺は喜多方市の熱塩加納町にある。
熱塩加納町は2006年に喜多方と合併するまでは耶麻郡熱塩加納村であった。
熱塩温泉と日中温泉の2つの温泉を持つ農業中心の村だった。
その熱塩温泉の元湯の権利を示現寺が持っており、示現寺の駐車場脇には示現寺所有の足湯浴場がある。
足湯浴場の右側には「源翁湯」という浴場へ通じるドアがあるが、中は殺風景で狭く、小さな湯船が有るだけだった。
示現寺は周りを高い木々に囲まれ鬱蒼としている。
階段には苔が生えていて何ともいい具合いである。
風情のある鐘楼の下が物置代わりに使われており、除雪用と思われる小型ローダーが入っていた。
本堂脇を通り更に進むと殺生石の案内板が有るが、池を囲む石のどれが座禅石(殺生石)なのかは分からなかった。
階段をさらに進むと開山堂があり、ここには源翁心昭作の木像が安置されている。
この開山堂の右手の高台に木柵で囲われているのが源翁心昭のお墓である。
□■□示現寺情報□■□
山号寺号 : 護法山 示現寺 【じげんじ】
住所 : 福島県喜多方市熱塩加納町熱塩甲795
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