2021年5月15日土曜日

飯盛山 / 会津若松市

飯盛山

飯盛山と言えば、本来は会津戦争(1868年)の予備兵力であったはずの白虎隊が実戦に投入され、集団自決した現場として知られている。
また、珍しい建築様式の建造物として知られている“さざえ堂”が在るのも飯盛山。

飯盛山の駐車場

飯盛山へは車でお出でかけの方も多いと思う。
以前は飯盛山近辺の土産物店が観光客を自分の店に引き込もうと、客引きが車道にまで出て手招きをし、夜の街のポン引きのようにしつこく誘導をしていましたが、市や警察に苦情が殺到したようで段々と大人しくなって来たようではあります。
とは言え、無用なトラブルを避けたいとお考えの方々には市営の無料駐車場のご利用をお勧めします。
施設内には飯盛山観光案内所もトイレも有り、目の前にはまちなか周遊バス用のバス停も有り、とても重宝な駐車場です。飯盛山入口まで100メートル足らず。

飯盛山観光順路

飯盛山の参道入口に立ち、延々と続く石段を見て絶望的な気分になる方も多いのではないだろうか。
動く歩道「スロープコンベア」を利用しようかと悩む御仁も居らっしゃるだろう。
実は楽なコースがある。

土産物店を左右に見ながら少し参道を進むと、長い石段の少し手前の左手に「酒井峰治と愛犬クマの像」が在る。
ここを左に折れ、白虎隊記念館と太夫桜の前を通り突き当たりを右に行けば、白虎隊が逃走に使った戸の口堰洞穴へと続く道に出る。
ここからはいくぶん登り坂ではあるがあの石段を登る苦労に比べたら屁のようなものである。
途中にはこの道が本参道である事を示す石柱が立っている。
するってぇと、あの延々と続く石段は裏参道?
その目印となる「酒井峰治と愛犬クマの像」の酒井峰治とは。
戸ノ口原から退却する際に仲間達とはぐれ、山中で飼い犬のクマと出合い、知人の農民らに助けられて帰還を果たし、鶴ヶ城籠城戦に加わった。
明治維新後は一箕村内で精米業を営んだが、1905年(明治38年)、北海道に移り旭川市で再び精米業を営んだ。
その一箕村は、明治になってから何度か編成を繰り返し、1891年(明治24年)2月13日に 蚕養村から一箕村に改称された比較的新しい名称のようだ。
一箕村は現在でも一箕町として残っている。

左に哀愁漂う色あせた立て看板を、右に子育地蔵尊を見て戸ノ口堰洞穴へ出る。

戸ノ口堰洞穴

戸ノ口原から遁走する白虎隊がくぐり抜けた洞穴で、1832年(天保3年)に会津藩が延5万5千人を動員し貫通させた150メートル程の人口洞穴である。
白虎隊がこの洞穴を通り敗走するのは戸ノ口堰洞穴完成の1835年から33年後の事となる。
豊かな水は今でも会津若松市の各地を潤している。
厳島神社の前を過ぎるとさざえ堂が見えて来る。
スロープ登り口の土手には『天高し ピサの斜塔と さざえ堂』の句碑が建っている。
成瀬 櫻桃子【なるせ おうとうし】の句だが、正直言いまして駄句だと思います。

栄螺堂【さざえどう】

さざえ堂は1796年(寛政8年)に建立された六角三層のお堂で、正式名称は「円通三匝堂【えんつうさんそうどう】。
重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」。
その当時、飯盛山には正宗寺【しょうそうじ】という寺があり、そこの住職であった僧郁堂【いくどう】の考案によるもの。
そのゴツゴツとした螺旋建築物の様相は正にサザエその物である。
さざえ堂の内部は登りと下りを二重螺旋構造の一方通行にすることで、互いにすれ違うこと無くお参りできるようになっており、最上部の小さな太鼓橋が登りと下りのスロープを結んでいる。
このスロープは階段ではなく傾斜の付いた板に滑り止めに3cm程度の角材を無数に打ち付けたもので登りに一回り半、下りも一回り半の右回りの一方通行と成っており、上の層を歩いている人の足音がゴトゴトと間近に聞こえる。
このような構造の建物を、恐らくは詳細な図面を書く事もなく作り上げた当時の工たちには恐れ入る。
特筆すべきは、出入り口の彫り物だ。
2匹の龍が立体的に飛び出して柱に絡み付いている。この様な彫り物は他では見た事が無い。
平成8年に国重要文化財に指定されたようだが、その保存状態の悪さと言ったらない。
補修には樹脂波板が打ち付けられ、スロープの補修には合板のような板が使われている。
千社札が所構わず貼りまくられ、至る所に落書きがある。
こんな汚い国重要文化財って他に有るだろうか?
スペインのバロック絵画が素人の修復で台無しになったニュースが有ったが、日本も他国を笑ってなど居られないレベルである。
国も補助金を交付して終わりではなく、技術者を派遣して歴史感を損なわないような修復を施すべきだと思う。

さざえ堂建立当時に在った正宗寺【しょうそうじ】は明治初期の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は存在しません。
お寺が在った痕跡を探して付近を歩いていると、家屋の形と言い土地の使い方と言い、昔はお寺だったのではと思われる民家が在りました。
例の、本参道である事を示す石柱が立っている角のお宅がそうではないかと思います。
白虎隊十九士を祀った社宇賀神堂【うがじんどう】の前を通り参道の石段と合流する。


白虎隊士の墓

白虎隊とは会津戦争の際に会津藩によって組織された16〜17歳の予備兵力隊でした。実戦に投入される予定ではなかったので装備は火縄銃に毛の生えた程度の先込め式のゲベール銃を持たされていた。
白虎隊は戸ノ口原の戦いで敗れ飯盛山へ遁走。負傷と疲労困憊によりこれ以上の戦闘は不可能と20名が自刃を決行し19名が死亡。
唯一喉を突いた飯沼貞吉(のちの飯沼貞雄)だけが死に切れず生き残った。

白虎隊は若松城下町から上がる煙を見て城が炎上したと思い込み自決を選んだというのが一般的に知られている話だが、実はこの話、会津出身の陸軍軍人 平石弁蔵【ひらいし べんぞう】により1928年(昭和3年)に刊行された『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』によって広められたデマのようだ。
しかし、『会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘』は関係者に丹念に聴き取り調査を行った上で書かれた物のようだ。証言者の記憶違いが原因か。

真相は飯沼貞雄(貞吉)の手記を孫である飯沼一元が2010年頃に親類宅で見つけたことで判明。
それによると、白虎隊の面々は城下町が炎上しているのであって落城したのではない事を知っていたが、入城するにしても更に闘うにしても敵に捕まることになる。生き恥を晒すよりはと飯盛山で自刃を決行したとの事。

「ローマ市寄贈の碑」と「フォン・エッツドルフ氏寄贈の碑」

ベニート・ムッソリーニが率いた国家ファシスト党と、アドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツ。どちらも独裁権力と弾圧を大きな特徴とする。
そんな世界的2大極悪政党からの贈り物を誇らしげに展示しているのには面食らいます。
飯盛山は公共性があるとは言え所詮は個人所有の山ですので、所有者がどこに何を置こうが勝手と言えば勝手なんですが…。

飯沼貞雄翁の墓

飯沼貞吉(のちの貞雄)は1854年4月22日(嘉永7年3月25日)生まれ。
会津藩家老である西郷頼母の妻 千重子は父(飯沼時衛一正)の妹。つまり西郷頼母は叔父にあたる。
15歳の時に16歳と詐り白虎隊に入隊。
飯盛山で自決を試みるが奇跡的に息を吹き返したところ、印出新蔵【いんで しんぞう】の妻 ハツに救出された。
飯沼貞吉は喉へ2度、脇差を刺したブスリと音を確認したが何かが支えて後へ通らず、3度目にしてようやく通った様だがそのまま人事不省となった。
顔見知りの印出ハツに助けられながら塩川に辿り着き、近江屋という醸造業を営む深田文内宅に匿われた。この近江屋、現在は東邦銀行塩川支店となっており、敷地には飯沼貞吉ゆかりの地の碑が立っている。
翌朝、町医者の三本住庵【みつもと じゅあん】が手当てをし、夕方には長岡藩軍医の阿部宗達などが治療し一命をとり止めた。
しかし、印出新蔵【いんで しんぞう】の妻 ハツに救出される前に盗賊に身ぐるみを剥がされたり、印出ハツの前に別の女性が助けたりする記録も有るようで事実がどうだったのかは良く解らない。
数日後、塩川から移動し、喜多方市岩月町入田付沼尻の紫雲山来迎院清竜寺(清瀧寺)に匿われる。

この紫雲山清竜寺は喜多方市のだいぶ町外れに在る。
現在でも逃亡者を匿うのに十分に機能するのではないだろうか。
人家が絶えた所で山門が見えて来た。飾り気のない簡素な山門だが、左右には仁王像と思われる像が安置されている。
だいぶ奥にお堂が見えるので行って見ると不動堂とあった。本堂ではないようだ。この奥はどん詰まりで小さな滝が落ちていた。
引き返すと「蘇生白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地」の碑がある。
その数メートル離れた所に小さなお堂が有り、中を見ると「紫雲山清竜寺」と掛かれた板が掲げてあった。
改めて見渡すと、このお堂の前が不自然に広い。ここに本堂が在ったのかも知れない。
野山と古い山門がある風景は、いつまで見ていても見飽きることがない。
それにしても、首を3度も突き刺しておびただしい流血で意識が薄れる中を、飯盛山から塩川、塩川から喜多方の山奥まで30km強を移動した生命力には驚く。

長州藩士 楢崎頼三【ならざき らいぞう】が長州へ連れて帰り充分な教育を受ける事ができた。
飯沼貞吉が長州へ行った事は会津でも長州でも極限られた者しか知らなかったようで、会津では貞吉の母だけが知っていたらしい。
貞吉の伯父さんにあたる西郷頼母には伝えても良さそうなものだが。
明治維新後は名を貞雄と改名、逓信省通信技師となり仙台市で死亡。本人の意向により遺髪と義歯(抜け落ちた歯と言う説もある)が飯盛山に埋葬された。
飯沼貞吉はジョン万次郎の次くらいに波乱万丈の人生を歩んだ人ではないかと思う。

白虎隊自刃の地

飯盛山中腹にある自刃の地。
会津戦争当時は高い建物も無く鶴ヶ城(若松城)は容易く目視できたのかも知れないが、現在では肉眼での確認はなかなか難しい。
白虎隊が自刃したのは慶応4年8月23日。現代の暦では1868年10月8日となる。木々の葉も落ち始める頃である。兵糧は尽き、洞穴の冷たい水にかじかみ、遥か彼方に見える天守閣は砲撃により激しく傷み、城下町は燃えさかる。自ら命を絶ちたくなるのも無理のない話である。
このような歴史的に大きな意味のある土地を個人の管理に任せておいて良いものなのか。さざえ堂だけでも公的に十分な管理をすべきだと思う。

飯盛山

住所 : 福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢155
営業時間 : 日の出〜日没
定休日 : なし
料金 : 無料 (スロープコンベア・さざえ堂・各資料館は有料)
駐車場 : 市営観光客専用駐車場の利用を推奨(無料)

無料駐車場・まちの駅飯盛山

住所 : 福島県会津若松市一箕町大字八幡字牛ケ墓244-5
利用時間 : 8時30分〜17時15分まで
料金 : 無料
台数 : 約80台
※予約不可

紫雲山清竜寺 

住所 : 福島県喜多方市岩月町入田付
料金 : 無料
駐車場 : なし


《関連記事》


紫雲山来迎院清竜寺 / 喜多方市

紫雲山来迎院清竜寺


飯盛山で自決を試みたが奇跡的に息を吹き返した白虎隊士の飯沼貞吉が匿われた喜多方市の寺。

喜多方市の町外れの集落から更に田園地帯を進み、だいぶ人里を離れた頃にほんの数軒だけの小さな集落に出る。その集落のどん詰まり辺りで山門が見える。
山門と辺りの風景とが相まって、一種の桃源郷的な美しい景色を作り出している。
質素な造りながらも仁王像と思われる像が左右に安置されている。
50メートルほど先にお堂が在るので行ってみたが「不動堂」と書いてあった。その奥には小さな滝があるだけで本堂が何処にも無い。
山門まで引き返すと小さな小屋があり、奥に「紫雲山清竜寺」と書かれた板が掲げられてあった。
廃寺になったのか本堂が無い。
近くには「蘇生白虎隊士 飯沼貞吉ゆかりの地」と書かれた石碑が立っていた。
飯沼貞吉は不動堂に潜んでいたらしい。

『雷光院紫雲山清龍寺』の文字が読み取れる。本堂がいつ無くなったのかも正しい院号寺号も不明の謎だらけの寺。


紫雲山来迎院清竜寺

山号院号寺号 : 紫雲山 来迎院 清竜寺
住所 : 福島県喜多方市岩月町入田付
駐車場 : なし
 (清瀧寺の表記もある)

《関連記事》



紫雲山来迎院清竜寺の四季


2021年5月11日火曜日

土津神社 / 耶麻郡猪苗代町

土津神社と保科正之と磐椅神社

土津神社【はにつじんじゃ】

土津神社【はにつじんじゃ】は猪苗代町 見祢山の麓にある神社で、会津藩初代藩主 保科正之【ほしな まさゆき】を祀っている。
神社の名前は江戸時代前期の神道家 吉川惟足【よしかわ これたり】から「土津【はにつ】」の霊神号を送られた事に由来する。
霊神号とは仏教での戒名に相当するもの。
保科正之は2代将軍 徳川秀忠の四男として1611年(慶長16年)に生まれた。徳川家康の孫にあたる。
妾腹の子だったので不遇な幼少期を送るが、異母兄弟で長兄である家光が鷹狩りの際に偶然に正之の存在を知ったのを切っ掛けに、その後の家光は何かと正之を贔屓にした。
1643年に会津藩23万石の大名に引き立てられる。
その後は、子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
1651年、病床の家光を見舞った際に息子(家綱)の面倒を観てくれるよう直接頼まれた事に感銘し、徳川家への忠誠を誓ったルール「会津家訓十五箇条」を定めた。
会津藩の最後の藩主 松平容保【まつだいら かたもり】は、家老 西郷頼母【さいごう たのも】の忠言に耳を傾ける事をせずこの家訓を頑なに守った結果、京都守護職を断る事ができなくなり、更には新選組を雇い入れ、挙げ句の果てに幕府側の中心的存在として薩長軍と戦い悲惨な結末を招く事になる。

保科正之が1673年に死去すると、遺言通り磐椅神社【いわはしじんじゃ】の北西に葬られ、その2年後の1675年に墓所から南へ400m強の位置に土津神社が造営された。
その当時の土津神社は日光東照宮と肩を並べる絢爛豪華な造りだったようだが、戊辰戦争時に全焼してしまった。
敗戦後、御神体は斗南藩へ移し祀られるが、1871年の廃藩置県により斗南藩が廃されたため猪苗代へ戻り、一時的に磐椅神社に祀られた。
1880年に現在の場所に土津神社が再建され、再び御神体が遷された。

鉛套弾

土津神社境内には日清日露戦で勝利した記念品として奉納された鉛套弾【えんとうだん】が祀られてある。
鉛套弾とは柔らかい鉛でコーティングされた弾丸で、銃身内部に刻まれたライフリングに食い込ませる事により、発射された弾丸に高速回転を与えて弾道を安定させるものである。

正之は生前、死後は磐椅神社の末社と成ることを望んでいた。そのような理由で土津神社は磐椅神社の末社となっている。

土津神社から保科正之の墓がある奥の院までは435mもの参道石畳が続く。
少し凹凸の有る石畳は緩やかな登り坂が続き、所々に[⚠熊出没注意!]
の標示が有る。
奥の院の墓所は小高い丘の上に在り、墓とは思えない奇妙な形をしている。

土津神社 【はにつじんじゃ】

住所 : 福島県耶麻郡猪苗代町字見禰山3
駐車場 : なし (土津神社近くの無料町営駐車場を利用)


《関連記事》

2021年5月6日木曜日

磐椅神社 / 耶麻郡猪苗代町

大鹿桜で知られる磐椅神社

Google Mapでは辿り着けない磐椅神社【いわはしじんじゃ】

土津神社近くの町営無料駐車場から、土津神社を左手に見ながら坂道を登って行くと[➔ 磐椅神社 0.5km]の標識が有るので、それに従い、車1台分程度の幅の道を水路に沿ってクネクネと林の中を暫く
進むと辿り着く。
Google Mapにはこの道が表示されず、磐椅神社北側の雑木林の中をかき分けて進むようなルートが示される。
参拝の際はYahoo Mapのご利用をお薦めします。
この道を歩くと所々に[熊出没注意!]の看板が有る。
磐椅神社の前のロータリーのように成っている所で、ヒヅメが付いた鹿の脚と思われる骨が落ちていた。
熊に襲われたのだろう。本当に熊が出没するようです。くれぐれもご注意下さい。

途中、田中正玄の墓が在る。
田中正玄とは保科正之の時代の家老で、会津を離れがちな保科正之に代わり執政した人物とのこと。


磐椅神社の桜と湧き水

4世紀後半頃、伝説上の人物である武内宿禰が磐椅山(現在の磐梯山)の山頂に祭神を祀り、8世紀前半に現在の場所に移されたようである。
その祭神は民話に登場する足長と手長という魔物で、大山衹神【おおやまずみのかみ】と埴山姫命【はにやまひめのみこと】の事。
また別の言い伝えでは、磐梯山は昔から度々噴火し、麓の村々に大きな被害を与えるために病悩山【やもうさん】と呼ばれていた。その山頂に棲み悪行を繰り返す手長足長を弘法大師が磐梯明神として封印した。それを祀ったのが磐椅神社の始まりという話もあるようだ。
歴史が古く格式の高い神社なのだが、残念な事に現在はだいぶ見すぼらしくなってしまっている。
境内には会津五桜の一つである「大鹿桜」と、樹齢800年以上の鳥居杉に根付いた寄生木「えんむすび桜」がある。
「えんむすび桜」には良縁を願ってか、5円玉が幾枚も括り付けられてあった。
この杉の木、元々は通りを挟んで左右に対で生えていたが、落雷や長雨の影響で左側の杉の木は倒れてしまった。
「宝の水」と名付けられた湧き水は、日本テレビ「嵐にしやがれ」内の企画で相葉と小峠の両氏がコーヒーを淹れる際に使用した。

保科正之との関係

磐椅神社は会津藩祖である保科正之公が深く信仰した神社で、死んだら磐椅神社の近くに葬ってほしいとの遺言通り、1673年に磐椅神社から北西へ約500mの見祢山の麓に葬られた。
それから2年後の1675年、保科正之の墓から南へ400m強の場所に造営されたのが土津神社で、磐椅神社の末社となっている。


磐椅神社【いわはしじんじゃ】

住所 : 福島県耶麻郡猪苗代町西峰6199
駐車場 : なし (土津神社近くの無料町営駐車場を利用)

《関連記事》