野口英世と山内ヨネ子
山内ヨネ子は野口英世の初恋の女性とされている。
ヨネ子は医師 山内立真の娘として生まれたが、明治22年に父親が亡くなった。この時ヨネ子はまだ7歳。山内家を再興させたいと願っていた母親の希望通り、後に若松で最初の女医となり、「三省堂」を開院する。
ヨネ子は女学生時代に日本基督教団若松栄町教会で出会った野口清作(後の英世)から執拗なストーカー行為を受ける。
その当時、日本基督教団若松栄町教会は日新町に在り、野口清作の下宿は辻向かいに在った。二階の角部屋に棲んでいた清作は教会に通うヨネ子の姿にねちっこい情念の視線を送っていた。
執拗に恋文を送り付け大問題になった事もある。
ヨネ子にしてみれば、清作などは猪苗代から出て来た田吾作野郎としか思っていなかっただろう。
確かに清作は成績優秀だったが、生まれつきの天才でもなければ、学問好きの青年でもない。学問を己の不遇な環境から脱するための手段としか考えていない所があからさまだった。
清作にとっての学問は、金満家が金に物を言わせるがごとく、ならず者が腕力に物を言わせるがごときものであり、そんな清作の卑しくさもしい部分をヨネ子は見透かしていたのだろう。
現在、山内ヨネ子の住まい跡辺りから若松栄町教会付近までの通りは「野口英世青春通り」と名前を付けられているが、実際は「山内ヨネ子受難通り」だったのだ。
後にヨネ子は年の離れた医者の後妻となる。
初婚で11歳も年上の男の後妻になってまで家の再興を計る、ある意味取り憑かれたような生き方はなんとも憐れだ。
4人の子供をもうけた後に夫は他界。
そこに又ストーカー野口が接近するが、またもや撃沈。野口英世の人の迷惑も顧みず、己の欲求を全うする事にのみ注力する姿勢には、やはり「ストーカー」という言葉以外には思いつかない。
ヨネ子は医院を一人で続け、1945年に64歳で亡くなった。
墓は会津若松市栄町の興徳寺にある。
日本基督教団若松栄町教会
藤生 金六【ふじう きんろく】が1894年(明治27年)8月に会津若松に若松栄町教会を創設。
1895年(明治28年)4月に野口清作はここで洗礼を受けた。
1911年(明治44年)に現在の地に移転。
この時期の西洋風建築物はとても面白く、中を拝見したいものなのだが、礼拝堂内の見学はできない。
日新町の教会跡地は空き地になっており、雑草が生い茂っている。ひどく狭い土地だが、どのような建物が在ったのだろう。
日本基督教団若松栄町教会
住所 : 福島県会津若松市西栄町8-36
駐車場 : なし
見学 : 随時(建物内は不可)
旧日本基督教団若松栄町教会跡地
住所 : 福島県会津若松市日新町15-51 (有)ウエキヤの裏
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