金山町にある230年以上昔に彫られた仏像群 鮭立磨崖仏【さけだちまがいぶつ】
磨崖仏を示す標識付近に車を停めて、あぜ道を歩いて行った方が無難。車がUターンできるスペースが有りません。
定期的に手入れはされているようですが雑草が伸びるのは早いもので、アブやら蛾が飛び交う草むらの斜面を登ると磨崖仏群が見えて来ます。
近くには「立入禁止」の立て札がある謎の階段が在り、とても気になります。
五穀豊穣と病苦の退散を祈う鮭立磨崖仏
岩の窪み(幅約5メートル、高さ約2メートル)に彫られた仏像群。
天明の飢饉の惨状を見て、修験者“法印宥尊”が五穀豊穣と病苦の退散を祈って磨崖仏を彫り始め、“法印賢誉”が完成させたものと伝えられているが、その法印宥尊と法印賢誉がどのような人物なのかが全く判らない。
制作当初は顔料で彩色したのだが経年劣化により現在は微かに顔料の名残が見られる状態になってしまった。
このまま風化と劣化に晒しておかずに、樹脂などでコーティングする術は無いのだろうか。
天明の飢饉
天明の飢饉とは1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。
1783年のアイスランドのラキ火山とグリムスヴォトン火山の噴火により膨大な量の火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した塵は北半球を覆い、地上に達する日射量を減少させ低温化と冷害を招いたのが原因の一つと考えられている。
また、国内では岩木山と浅間山の大噴火による降灰が、関東から東北にかけて始まっていた飢饉に更に追い討ちをかけた。
田畑に使える土地が少ない上に、山間で日照時間も乏しい豪雪地帯のこの鮭立地域での飢饉はさぞや大変な状況だったろうと推察する。
村人の窮状に具体的に何も手助けができない修験者が、すがる思いで岩肌に仏の姿を彫り続けたのだろう。
山間の小さな集落は、おそらく天明の飢饉の頃から、ひょっとすると稲作が伝わった弥生時代辺りから風景が変わっていないのではないだろうか。
道路が舗装され家屋の屋根がトタン葺きに変わっただけで、何百年もの長い間ほぼ同じ風景が続いているように思う。
鮭立磨崖仏【さけだちまがいぶつ】
住所 : 福島県大沼郡金山町大字山入字石日山
駐車場 : なし