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2021年6月16日水曜日

鮭立磨崖仏 / 大沼郡金山町(2021)

金山町にある230年以上昔に彫られた仏像群 鮭立磨崖仏【さけだちまがいぶつ】


磨崖仏を示す標識付近に車を停めて、あぜ道を歩いて行った方が無難。車がUターンできるスペースが有りません。
定期的に手入れはされているようですが雑草が伸びるのは早いもので、アブやら蛾が飛び交う草むらの斜面を登ると磨崖仏群が見えて来ます。
近くには「立入禁止」の立て札がある謎の階段が在り、とても気になります。

五穀豊穣と病苦の退散を祈う鮭立磨崖仏

岩の窪み(幅約5メートル、高さ約2メートル)に彫られた仏像群。
天明の飢饉の惨状を見て、修験者“法印宥尊”が五穀豊穣と病苦の退散を祈って磨崖仏を彫り始め、“法印賢誉”が完成させたものと伝えられているが、その法印宥尊と法印賢誉がどのような人物なのかが全く判らない。
制作当初は顔料で彩色したのだが経年劣化により現在は微かに顔料の名残が見られる状態になってしまった。
このまま風化と劣化に晒しておかずに、樹脂などでコーティングする術は無いのだろうか。

天明の飢饉

天明の飢饉とは1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。

1783年のアイスランドのラキ火山とグリムスヴォトン火山の噴火により膨大な量の火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した塵は北半球を覆い、地上に達する日射量を減少させ低温化と冷害を招いたのが原因の一つと考えられている。
また、国内では岩木山と浅間山の大噴火による降灰が、関東から東北にかけて始まっていた飢饉に更に追い討ちをかけた。

田畑に使える土地が少ない上に、山間で日照時間も乏しい豪雪地帯のこの鮭立地域での飢饉はさぞや大変な状況だったろうと推察する。
村人の窮状に具体的に何も手助けができない修験者が、すがる思いで岩肌に仏の姿を彫り続けたのだろう。

山間の小さな集落は、おそらく天明の飢饉の頃から、ひょっとすると稲作が伝わった弥生時代辺りから風景が変わっていないのではないだろうか。
道路が舗装され家屋の屋根がトタン葺きに変わっただけで、何百年もの長い間ほぼ同じ風景が続いているように思う。

鮭立磨崖仏【さけだちまがいぶつ】

住所 : 福島県大沼郡金山町大字山入字石日山
駐車場 : なし

2010年9月8日水曜日

鮭立磨崖仏 / 大沼郡金山町 (2010)

鮭立磨崖仏【さけだちまがいぶつ】は“民宿・食堂 おふくろ”から252号線を南下し352号線に入った所に在る。

案内板によれば、天明の頃大飢饉が有り、この地に住んでいて痛ましい状況を見た法印宥尊という修験者が作り始め、その志を継いだ法印賢誉が完成させたらしい。

岩壁には屏風に見立てたように大きな凹みがある。

鮭立磨崖仏 / 大沼郡金山町

左端の面には磨崖仏らしいものは見当たらないが、風化した跡のようにも見える。

右端の面の一部には彩色された痕跡が見受けられるが、完成当時を想像できるほどではない。

像はどれも素朴なデザインで、頭部が大きめに作られているせいか稚拙な印象を受ける。

鮭立磨崖仏 / 大沼郡金山町

鮭立磨崖仏 / 大沼郡金山町

中央付近に彫られた不動明王は、炎の形の窪みを彫り更にその中に像を彫り組む凝った造りなっている。

鮭立磨崖仏 / 大沼郡金山町

周りには人家が疎らに在るものの神社や寺らしき建物は無い。

磨崖仏の周辺は畑と藪なので、夏の時期はアブが多い。

車にバチバチと当たってくるし、ドアを本の一瞬開けただけで6匹ほどのアブが車内に飛び込んできた。

修験道は元々は原始神道を源としながらも、平安時代頃には仏教の一派として扱われるようになり、明治の初めには禁止令が出るなど、紆余曲折の道程を辿った宗教である。

江戸時代の修験者、法印宥尊と法印賢誉はどんな生活をし、どんな生涯を送ったのだろう。

来る日も来る日も岸壁に仏を彫り続けるような生活は、想像しただけでウンザリしてしまう。


■□■ 磨崖仏情報 ■□■

磨崖仏名 : 鮭立磨崖仏 (さけだちまがいぶつ)

住所 : 福島県大沼郡金山町山入鮭立居平

駐車場 : 特に無し

写真 : 鮭立磨崖仏